迷いは、弱さではない
更新日:2 日前
ようこそ、くるるの扉へ。 今日は、立ち止まることについて、取り上げたいと思います。
立ち止まるということ
「立ち止まる」という言葉から、どのようなイメージを感じるかは、人それぞれだと思います。
立ち止まることにマイナスな印象を持っている方もいるでしょう。一方で、立ち止まることにポジティブな印象を持っている方もいます。
どちらが正解ということではありませんし、時には立ち止まらず、時には立ち止まり、意識的にも無意識的にもその両方を行うという方が、実際には多いと思います。
ところで、何か大きな決断をする時には、立ち止まる、立ち止まらないのどちらかを選ぶというよりは、「立ち止まらざるを得ない」のではないでしょうか。
特に、経営者の方の決断には、多くの波及要素があります。多くの波及要素に考えを及ばせ、思いを巡らせれば、立ち止まるのは当然のことでしょう。
私たちが立ち止まる時
その時、私たちはこうした状況にいるかもしれません。代表的な、立ち止まらざるを得ない状況を、三つ見てみましょう。
・材料は揃っているのに、踏み出せない
リサーチもアドバイスも重ね、判断材料は十分に揃った。それでも踏み出せない背景には、以前の記事「ロジックを尽くしても割り切れないのは、なぜか」で触れた、認知のバイアスや社会的な仮面があることもあります。
・決めた瞬間に、失われるものが見えている シミュレーションを重ねるほど、決断した時に失うものもはっきりと見えて、踏み出せない。
・立場としての答えと、自分の本音がずれている
経営者としての判断には自信がある。しかし、その立場を一度脇に置いた時、深い部分にある本音との乖離に気づいて、踏み出せない。
この感覚については、後ほど私自身の経験を交えてお話しします。
決断に際して誠実であろうとすれば、慎重になるのは当然のことです。
慎重になれば、自ずと立ち止まることになります。
それは時には決断内容を再検討することにつながるかもしれませんし、時には決断内容を反芻し、納得感を深めることにつながるかもしれません。
いずれにしても、立ち止まることは、誠実であることのあらわれです。
迷いは、誠実な信号である
心無い人は、立ち止まったあなたを指差して、「迷っている」「自信がない」「時間の無駄」と言うかもしれません。
しかし本当に危ういのは、決断の前に立ち止まることではなく、肚に落ちていないものを、落ちたことにして進めることではないでしょうか。
ところで、優秀な経営者は決断が速い、とはよく言われることです。
ここで私自身が、この「速い決断」を通じて経験したことをご紹介したいと思います。
以前勤めていた会社で、ある部門の責任者をしていた時期のことです。
その部門を続けるか、たたむか。判断が必要な状況で、私はたたむことを進言し、その通りになりました。当時の私は、それしかないと考えていました。
けれど今振り返ると、その判断の奥底には、この重さから早く逃れたいという、私個人の感情があったように思います。
誠実な検討の結果というより、自分を守るための結論を、経営判断という形に整えて差し出していたのではないか、そう思うことがあります。
もう少し状況を俯瞰し、流れそのものを見極めてから決めても、遅くはなかったのかもしれません。
この問いに、今も明確な答えは出ていません。
この経験を経た今、「優秀な経営者は決断が速い」という言葉を、額面通りには受け取れなくなりました。この言葉は、肚に落ちていないものを落ちたことにして進めることを勧めているのではなく、いつまでも迷い続けることへの警笛として受け止める方が、私にはしっくりきます。
迷いは能力の不足ではなく、まだ統合されていない材料が残っている、という知らせに過ぎません。
つまり今回取り上げている立ち止まりとは、肚に落ちていないのに決断の速さを優先して進めることで後悔しないために、むしろ積極的に一旦立ち止まる、というニュアンスです。
踏み出せない状況を長期化させないためにきちんと立ち止まる、それは中長期的にみれば、経営者としての誠実さのあらわれと言えるでしょう。
待つことは、止まることではない
何よりも、待つこと、立ち止まることは、止まり続けることではありません。
易学に、水雷屯(すいらいちゅん)という卦(か)があります。垂れ込める雲の向こうから、春雷の音が遠く聞こえる。けれど大地にはまだ雪が薄く残っている——今はまだ無理に芽を伸ばす時ではなく、力を蓄える時だと説く卦です。
私自身、この卦の意味を頭ではなく実感として受け取ったのは、武術の稽古を続けていたある時期でした。ある頃から、技が上達していかない感覚が続きました。試行錯誤を重ねても、変化は起きません。
そんな時、頭に浮かんだのが、この水雷屯でした。
今は伸びる時ではなく、蓄える時なのだと。
天地の運行は、こちらの意図や道徳性、誠実さの有無に関わりなく、淡々と巡り続けます。
今がどの季節にあるかを、自分で選ぶことはできません。
だからこそ易は、先を告げるためではなく、今この時をどう在るかについて、深い示唆を与えてくれます。
地道な稽古を重ねるうち、ある時、積み重ねてきたものが、ふとつながり合う感覚がありました。出来なかったことが、いつのまにか出来るようになっていたのです。
水雷屯が教えてくれるのも、同じことです。
自分がいまどの流れの中にいるのかを、少し離れた場所から眺め直すための一つの視座——それがこの卦の意味するところです。
その時に見えている潮目、その時の天気図は、常に流動的です。同じ形の答えが、万人に等しく当てはまるということはありません。
おひとりおひとりの状況によって、待つべき長さも、待ち方も異なります。
だからこそ、きちんと立ち止まり、その流動性の中に身を置くことそのものに、意味があるのです。
きちんと立ち止まる、それはひとつの固定的な状態ではありません。
おひとりおひとりの状況によって、その内実は異なります。
ただ、内側に引っかかっているものを、ご自分の言葉にして外に出すことが、その流動性の中で欠かせない一歩になります。
それでも、一人では見えにくい理由
それでも、この肚に落ちていくプロセスを、一人だけで完結させるのは、簡単なことではありません。
材料をいくら並べ直しても、それを見ている視点が変わらなければ、結局は同じ景色を、同じ角度から見直しているだけになりやすいからです。
堂々巡りに気づかないまま、時間だけが過ぎていくということも起こります。
だからこそ、内側に引っかかっているものを、言葉にして外に出す場が要ります。誰かに向かって話す、あるいは表現する。そうした形で一度自分の外に置いてみることで初めて、それまで見えていなかった角度から、自分の材料を眺め直すことができるようになります。
これは、状況を俯瞰することにつながります。
言葉にして外側にアウトプットし、状況を俯瞰する。このプロセスによって、迷いが行き場を得ることができます。
結び
きちんと立ち止まり、迷いが行き場を得たとき、決断は、内側から立ち上がる。
くるるの扉は、迷いが行き場を得るプロセスを、心理と易学という二つのファンクションを通じて、ご一緒いたします。
きちんと立ち止まりたいとお考えの時、くるるの扉はあなたのご来訪をお待ちしております。



